2009.08.04
あれは物語の構図が過去の思い出を思い出し感傷を呼び起こすようなものだからだと思う(8)
■http://anond.hatelabo.jp/20090804001253
あれは物語の構図が過去の思い出を思い出し感傷を呼び起こすようなものだからだと思う。
だれだって程度に差はあれど小、中で一度はこれは恋なのかと思うような感情を持った事はあるだろうし
高校時代には偶然帰るタイミングが合えば電車で降りる駅まで話をしながら一緒に帰るような異性の友人の一人くらいはいただろう。
しようとして出来なかった告白や送ろうとして送れなかったメールってのもあったはず。2部はそういう貴樹へ(視点女子を主人公と思わず貴樹をあくまで主人公と考える)自分を投影してしまい
最期の特別のない日常を送る主人公がでてきて更なる投影を行ってしまう。(現実で特別である人なんて少ないので)
こういう風に物語がたやすく自己の投影、およびそれに伴う過去の回顧が出来る構造で
最期の最期まで主人公が特別な存在にならないがゆえに自分は特別でないと改めて認識させられることにより鬱になるんだとおもう。
ちなみにこの仮定の前提としてどれだけ物語の主人公へ同一化するかは別として物語をみるって言う事は特別な状況を求めることだということを前提にもって欲しい。
0
1
■http://anond.hatelabo.jp/20090804010932
だれだって程度に差はあれど小、中で一度はこれは恋なのかと思うような感情を持った事はあるだろうし
高校時代には偶然帰るタイミングが合えば電車で降りる駅まで話をしながら一緒に帰るような異性の友人の一人くらいはいただろう。
しようとして出来なかった告白や送ろうとして送れなかったメールってのもあったはず。
ぜーんぜん無い。皆無。記憶無し。
ついでに秒速5センチメートルと言うのも見てなくてネットであらすじ見ただけなのでずれてたらすまんけど
最期の最期まで主人公が特別な存在にならないがゆえに自分は特別でないと改めて認識させられることにより鬱になるんだとおもう。
自分が特別でないのなんて当たり前だろうに、何故それで欝になるんだろう。
自分が特別だと本気で思っているようなリアル中二ならともかく(でもリアル中二なら別の感想になりそうだ)
鬱々言ってるのはいい年こいてる人達だろうに。
2
■http://anond.hatelabo.jp/20090804012221
この文脈では「自分は誰が同見ても特別な存在」になれなかったのではなく「自分が大好きなあの人にとって特別な存在」になれなかったという意味だろう.
あの人にとっての唯一無二になれなかったということだ.
2
■http://anond.hatelabo.jp/20090804012221
レス元の増田だが
とりあえず最期の一文の
ちなみにこの仮定の前提としてどれだけ物語の主人公へ同一化するかは別として物語をみるって言う事は特別な状況を求めることだということを前提にもって欲しい。
これを理解して欲しかった。
酷い言い方ではあるがアニメを見るって行為は一種の逃避と考えて欲しい。
その逃避の中においてすらお前は特別なんかじゃないと言う現実を”改めて”認識させられるんだ。
それと同時に恋愛的にも初恋相手への思いに囚われたままけれど結果は特別な関係でもない
そういうことの積み重ねで憂鬱な気分になるのだと思う。
というか増田は一度ネット上の感想ログを漁ってみたらどうだ?
はてななんかだと簡単に見つけれるのだから読めば鬱になったと書いてる人の傾向がつかめその理由が理解できるかも
1
■「秒速」で鬱(最後までネタバレ)。
http://anond.hatelabo.jp/20090803105004を書いた者です。
なぜ「秒速5センチメートル」で落ち込むのかということについて(http://anond.hatelabo.jp/20090804001253からの質問)。
一言でいえば、「物語の中でくらい夢を見させてくれ」ということになる。以下、くどくどと語る。
この人(http://anond.hatelabo.jp/20090804010932)が勘所を書いていてよくまとまっている。
物語をみるって言う事は特別な状況を求めることだということ
まずこれが前提にある。ほとんどの物語というのは「桃太郎」から「インディージョーンズ」まで、「困難を乗り越えて幸せを得る様子」が描かれている。どのような「困難」を、どのように「乗り越えて」、どんな「幸せ」を得るかというところを変えていけば、ほとんどの物語をカバーすることができる。ここで勘違いしてはいけないのは、「幸せを得る」という部分が肝なのではなく、「困難を乗り越える」ところが肝だということだ。
要するに、物語の中に出てくる困難は必ず乗り越えることができる。これが大前提だ。
「秒速」の話でいえば、主人公の男の子と女の子は小学校・中学校時代によい関係にあったが、転校により遠く離れてしまう。男の子はそれでも女の子を想い続ける。この時点で物語の文法としては、「遠く離れても(=困難)」「きっと恋は成就するはずだ(=乗り越えて幸せを得る)」と予想される。ところが、最終的に大人になったその女の子は別の男性と結婚する。つまり、提示された困難を乗り越えることができていない。そればかりか、高校時代にはみんなから将来を期待されていた主人公の男の子は、勤め人であることに疲れてフリーランスのSEとなる。
物語の中でくらい夢を見させてくれという視聴者の期待を「秒速」は見事に裏切る。つらい現実から逃れようと思ったら、まざまざとつらい現実を見せつけられる。世の中そう簡単にうまくいくはずがないという現実は分かりきっているからこそ物語を見ているのに、「秒速」はあらためて「世の中うまくいかないよ」と語る。落ち込む。
私以外の「秒速で落ち込む人たち」も、そのような感じで落ち込んでいるんじゃないかと思う。とりわけ、青春時代の恋愛環境が人並みであり、社会人になってから(あるいはその年齢になってから)社会的に苦しんでいる人はそういう見方になると思う。逆に、青春時代の恋愛環境が劣悪だった人は、多分、この映画を見て「ざまあみろ」という気分になれるんじゃないかと思う。
「KIDS RETURN」もだいたい同じで、「世の中うまくいかないよ」と語る。ただし、こちらの映画は確か男子校だったはずなので、恋愛にトラウマのある人でも見られると思う。
ところで、「耳すま」「時かけ」を見て落ち込む人というのは、「俺の知らない間にみんなこんな楽しい世界にいたのか」と打ちのめされるのだと思う。では、この二つの作品で打ちのめされない人がどう見るのかといえば、「(前述の物語の文法に則って)主人公たちが困難を乗り越えることができてよかったなあ」と幸せな気分に浸るだけであり、そこに描かれている「最初から(あるいは中盤から)男女の仲がいい状態」については、特に気にせず、そういう話なんだと思って見るだけだったりする。
2
■昔はよかった人と、今も昔もずっとよくなかった人と。
http://anond.hatelabo.jp/20090802001622
「みみすま」「ときかけ」「さまーず」を見て落ち込む人がいるらしいが、私としてはその三つの映画よりも「秒速」「KIDS RETURN」の方が落ち込む。きっと私のような人も多いんじゃないかと思う。逆に、「みみすま」と「ときかけ」で落ち込んでいた友人は「秒速」では落ち込まなかったという。
両者の違いは、「よかった昔」の有無なんじゃないかと思っている。
よかった昔がなくて、あんな青春を送りたかったよ、と思う人は「みみすま」に打ちのめされる。わりと「みみすま的青春」を送っていたけど今どうしようもないという人は、「秒速」に打ちのめされる。
追記
http://anond.hatelabo.jp/20090804122141(なぜ「秒速」で落ち込むのかという話。ラストまでネタバレをしている)
3
4
■http://anond.hatelabo.jp/20090803115534
深夜に下らないトークしているだけで自分たちの何倍も稼いでいるのを見れば落ち込むでしょそりゃ
3

コメント
コメントする