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2010.03.10

再掲:森毅の火傷にざまぁみろと思う (2)

再掲:森毅の火傷にざまぁみろと思う

http://anond.hatelabo.jp/20100307133147

匿名なのだから記事が残っていようが本人には何の痛痒もないはずだ。

匿名なのに記事を消すなど不合理だと思う。

よって再掲させてもらう。

———

昨年の今頃、森毅という京都大学名誉教授が事故に遭った。

料理中にコンロの火が服に燃え移り、腕に火傷の重傷を負ったという。

ざまぁみろ、と思った。気分がすっとした。

このときの感情は、さすがに倫理にもとると感じて封印していた。

だが一年たって、正しい感情の発露だったと思い返した。

ために、ここで打ち明けてみようと思う。

今から20年ほど前、高校生だった私は森毅のエッセイをむさぼるように読んでいた。

進学校に通っていたが、地頭はそれほどよくなかったし、学校の雰囲気や、教育熱心な母の重圧に少々参っていた。

そんなときに、森が著書の中で

「ええかげんでいいんや。大学では勉強なんてしなくていい。エリートは勝手に育つもんだ」

と主張していたのに、救われた気がした。

それまでは頑張ろう。そして、大学では遊ぼう。

そう考えて頑張った結果、大学では、早慶クラスの、名の通った大学に入った。

大学では、遊びほうけていた。

とはいっても、それまで遊んだことのない人間の遊びなんてたかが知れている。

授業をさぼり、漫画喫茶で一日を過ごし、友達とくっちゃべって一日が過ぎていた。

遊ぶ、というより、勉強をしない、といった方がいいかもしれない。

大学を卒業してから20年、そのことを非常に後悔している。

地頭の悪い奴こそ、勉強しつづけなければならない。

高校までの受験勉強で学んだ知識が、実生活で生きる訳ではない。

若い頃に「勉強して、知識を記憶にたたき込み、それを応用する」という習慣をつけるために、受験勉強というものはあるのだ。

だから、高校まで勉強をつづけた後、大学ではそれ以上に勉強することが必要となる。

本当に自分がやりたいことを模索して、選択して、一心不乱に勉強する……それが大切な時期なのだ。

頭が悪い奴ほど、勉強の習慣を崩してはならないのである。

ただですら、怠惰に流れがちなのだから。

私は、貴重な4年間を、彼の思想の影響を受けたせいで無駄にした。

彼の言葉は福音だと思っていたが、なんのことはない、怠惰な人間に、「それでいいんだよ」と甘い言葉をかけていただけなのだ。

悪魔の言葉だった。

彼に影響を受けた私は、勉強の習慣を失い、未だにダメサラリーマンをつづけ、うだつがあがっていない。

どのような人間を師匠とするかが、いかに大切なことだと、今になってわかる。

彼の言っていることは、元々地頭のいいエリート向けの言葉であって、それ以外の9割の頭の悪い人間にとっては、地獄への一里塚だった。

彼にとってみれば、受験教育のために潰されそうになっている1割の人間を救うために、書いたのだろうし、彼の本を読んで影響を受けた1割はそれで救われたかもしれない。

だが、9割は社会から脱落していったのではなかろうか。

まさに、

「地獄への道は、善意で敷き詰められている」

私が彼を知った少し前から、彼の著作はブームになっていたので、影響を受けた高校生も多いだろう。

そのほとんどは、進学校に通う、受験生活に疲れた少年だったように思う。

そのほとんどは、その後の人生に失敗をしているように感じる。

森の吐いたメッセージは、そういうメッセージなのだから。

社会では、失敗者の言葉が掬われる機会は少ない。

だから、失敗者の声は届かない。

だから、彼はこれまで称揚されてきたのだろう。

テレビで数年前まで、コメンテーターとしてよく出ていた。

見かける度に、反吐が出た。

その森が、火傷を負ったときいて、胸がすぅっとした。

日本では、知識人の無責任な放言が許される雰囲気がある。

だが、青少年に怠惰を吹き込んだ森のような人物は、罰をうけるべきだ。

重傷の火傷は、天罰だったにちがいない。

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http://anond.hatelabo.jp/20100308183630

森毅がやけどを負ったというニュース、本当に「昨年の今頃」でびっくりした(2009年2月27日の出来事らしい)。あの恨み節を書いた元増田の森毅ファンっぷりは異常

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あなたは森毅を読めていない(同じく元・ダメ学生より)

私も森毅の本が好きだった立場だが、一言いわせてもらう。

確かに怠惰を奨励するような言説が世に跋扈していて、それに惑わされる若者がいることは認めよう。そういう人たちを批判すること自体は構わないと思う。しかし森毅をそこで非難するのは誤爆と言わざるを得ない。

そんなときに、森が著書の中で

「ええかげんでいいんや。大学では勉強なんてしなくていい。エリートは勝手に育つもんだ」

と主張していたのに、救われた気がした。

いったい森毅がどこでそんなことを言っていたのだろうか。

森毅が言っていたことは、私の解釈では、

「こうあるべきだ、という型に囚われる必要はないし、『エリートたるものかくあるべき』という型に学生をはめるのも馬鹿らしい」

「人に言われたことやイデオロギーを何でもかんでも真に受けて生きるのは痛々しいし危ない」

というそれだけのことに尽きる。ただ、これらの命題は自家撞着と紙一重(「俺の言うことを聞くな」というのはパラドックスである)だから、あんな持って回ったような言い方になっている、それだけのことだ。

私はそれを当時理解できずに痛い学生生活を送ったからこそ、その言葉の正しさを今になって身に沁みて実感していると確信している。

私が大学生になるかならないかの頃には、「怠惰の奨励」とはちょうど逆の言説が流れていた。「分数ができない大学生」だの「東大生はバカになったか」だのその手の本だ。その手の本を読めば、

「日本の大学生は勉強しない、教養がない、東大生でも厳密な学問を理解できない、旧帝大生といえども外国の大学生に比べて圧倒的に劣っている」

というようなことばかりが書かれていた。

それを真に受けた私は、「教養」とやらを身につけ、「あるべき大学生の姿」に自分を近づけるために随分つまらないことをやってしまった。興味も何もないのに哲学書だの文学書だのを紐解いてみたり、あるいは勉強の過程において、興味の範囲をはるかに超えて厳密さのために厳密さを追究してみたり。全く無駄であったとは言わないが、著しく非効率だったことは間違いない。そんな衒学的な「教養」だの、必要最低限を越えた完璧主義的な「厳密さ」だの(ε-δ論法というレベルではなく、物理数学を勉強するためにまず数理論理学を勉強するような類、あるいは読み始めた本は最後まで一行たりとも漏らさず理解しなければ許さないとする類の)を、自分の興味から逸脱してまで追い求めても、苦痛なだけで身に付くことは乏しかった。今だから分かるが、私はもっと自分を信用して、自分の興味に忠実になるべきだったのだと思う。そうすれば、「教養」だの「厳密さ」だのは、必要になった時点でいくらでも身につけることができただろうからだ。「青春」をエンジョイすることを放棄して人よりも多くの勉強時間を使っていたのに、人より飛び抜けて優秀でもない自分に嫌気がさしつつ、どうしてよいか全然わからなかった。修士論文のための研究をやっていて最後の数ヶ月でようやく自分の過ちに気づいたとき、余りに自分が時間を無駄にしていたことに気づいて絶望的な気分になったものだった。

敢えて長く自分語りを続けてみたが、あなたと対極的な私の失敗談を読んであなたはどう思っただろうか。「お前の下らん失敗など知るか、そんなどうでもいい本を真に受けたお前が悪いんだろうが」。その通りである。私が馬鹿だったのである。人に馬鹿と言われたくないがために、「教養がない大学生」「学力低下の大学生」と言われたくないがために、自分を無意味にガチガチに縛ったために自分の学生生活を楽しくなくしてしまった私の単なる自爆である。しかし私の失敗とあなたの失敗の一体なにが違うのか。どこかで見聞きしたことから勝手に自分で組み上げてしまった自己規範に従った結果、自分の人生をスポイルしたという点で、あなたと私のやったことは全く同じだ。そして森毅が言っていたことの真意を全く読み取れていなかったのも全く同じだ。

「他山の石」という言葉をご存じと思う。私の自分語りが痛いと思われるならば、あなたの自分語りも同じぐらい痛いことを思い知るべきだ。そして人を恨むのではなく、逆に過度に自分を責めるのでもなく、ただ自分が失敗したという事実を受け入れるべきだ。運が悪かったのか、環境が悪かったのか、そういったことが原因であなたや私は正しい道が見えなかったのかもしれない。だが、そのことに不満を言っても誰も助けてくれないし、失われた時間は返ってこないのだ。ならばせめて、今後の時間を無駄にしないようにお互い努力しようではないか。

http://anond.hatelabo.jp/20100308183630

(元URL: http://anond.hatelabo.jp/20100307133147


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